自分で決める引退

2002年11月27日
 ドラフト会議で指名を受けた選手の指名挨拶や、契約の記事が毎日のようにスポーツ新聞の紙面を賑わせている。
「○○選手と対戦したいです」
「一日も早く、レギュラーに定着出来るように頑張ります」
 など、希望に満ち溢れたコメントが踊るが、その反面、今年も多数のプロ野球選手がユニフォームを脱ぐ。
 華やかなセレモニーの中、惜しまれながら見送られる者。志し半ばで挫折する者。故障に泣かされ続けた者…。様々な引退模様が繰り広げられるのは、支配下登録選手という枠の下、単純に入った選手の数だけ、辞めなくてはならない選手が必要だから。実に厳しい世界であることを再認識させられる。
 昨日のトライアウトの結果もまだ分からないが、正直な話しで半数以上はユニフォームを脱ぐことになるだろう。それが現実だ。

 僕は野球評論家・金村義明のマネージャーを務めていた。一緒に食事をしていた時。あるいは酒の席などで、金村の引退を決意した際の話しを何度か聞いたことがある。
 引退は無数の伏線が絡まり、決意したと言うが、
「とにかくプロで18年。野球を始めた時から考えれば、30年近くも野球一筋やったんや。そこまで野球を続けていたのに、野球を知らん連中(野球未経験のフロント)に『お疲れ様』なんて言われたくなかった。せやから自ら引退を申し出た。それが残されたプライドやったからな」
 そう語ってくれたのが、とても印象深い。

 今秋、身近なところで引退をした選手がいる。プロ野球選手ではなく、社会人野球の選手であるのだが…。この日記にも何度か登場している、大阪ガスの浦口雅広である。
 僕が浦口を初めて観たのは大学1回生(関西では○年生とは呼ばない)。浦口は1回生の春から、ライバル校・関西大のレギュラー選手。体の線は細かったが、ショートストップの守備に関してはパーフェクトと言って良い程、完成されていた。とにかく守備範囲が広い。しかも、難しくプレーするのではなく、何気なく捕球姿勢に入っている。また、特筆すべきは、捕球してから送球に移行する動作の迅速さ。ボールを捕ったかと思ったら、もう投げている。ボールを捕る。そして、投げるのではなく、ボールを捕ったら、既に投げているのだ。聞けば、浦口は関西大に入学する前の東洋大姫路高時代からプロに注目されていたらしい。そのような浦口が試合前ノックを受けている姿を観れるだけで、当時の僕は得をした気分になっていたものだ。

 大学卒業後、浦口と再会したのは東京ドームであった。ちょうど僕はサラリーマンを辞めた時で暇(俗に言う“プー”です)を持て余していたのだ。そこで、東京ドームで行われていた社会人都市対抗野球大会を観戦しに行ったら、浦口の所属する大阪ガスの試合前だったのである。試合に備えて、3塁側ダグアウト前にいる浦口を見付けた僕は内野スタンドから
「お〜いっ、浦口〜! 覚えているかぁ?頑張れよぉ〜!」
 アホみたいに大声で叫んだ。怪訝そうな顔で大声の主を探す浦口。しばらくして僕と目が合い、浦口の口が動いた。何を言っているのかは分からなかったが、表情から察するに
「お前、何しとんねん? 肥えたなぁ〜」
 というような感じであったのだろう。
 それがきっかけとなり、頻繁に浦口とメールでやり取りするようになった。

(島尻→浦口)
 相変わらず守備、メチャクチャ上手いなぁ。
(浦口→島尻)
 いやいや、もう年齢やで。周りからは“足が動かんようになった”とか“肩が弱くなった”って、言われとるわ。でも、まだまだ頑張るで。

 浦口はメールでの宣言通り、軽快なプレーでグラウンドを走り回っていた。翌年の都市対抗では東京ドームのバックスクリーンに本塁打を叩き込むなど、力強さも併せ持って。

 そして、今年。僕はスポーツライターとして独立した。東京に拠点を置くことも考えたが、関西に引っ越して来た。関西に住んでいれば浦口のプレーを観る機会が多くなる。それだけが理由ではなかったが、浦口とつるむ機会も必然的に増えた。

 今季の浦口は故障が多かった。アマチュアの世界でも、五体満足でプレーしている人間は多くないだろうが、元々、浦口は故障に強い選手であった。大学時代の4年間8シーズンのリーグ戦を全試合、フルイニングに出場。大阪ガスに入社してからもすぐにレギュラーに定着して、常時、試合に出場して毎年のように3割台後半の打率を残していたことからも、それが分かるだろう。
 2月のキャンプで右手中指(ボールを投げる方)の爪をはがす。夏場の日本選手権大会の地区予選時は、長年の疲労が蓄積。左足甲〜足首〜アキレス腱痛が発生して、歩くのもままならないことがあった。
 それらが影響してか、1番か3番が定位置であった打順も、6番→7番→8番と下がって行く。自慢の守備もやや精彩を欠いているようにも映った。さらに都市対抗の大舞台で、敗戦の引き金となる痛恨の中継ミス(送球ミス)も犯してしまった。これ程までにボロボロの浦口を観るのは初めてであったし、非常に辛かった。でも、浦口はもっと悔しかったに違いない。その想いが選手権大会の地区代表決定戦で爆発した。
「(本塁打を)放りこんだで」
「今日はバックスクリーン直撃や」
 大学野球の取材で、観戦には行けなかったが、浦口からの報告メールは
「意地を見せてるなぁ」
 と、僕を安心させてくれたものである。

 10月17日、大阪ドーム。選手権大会にて、大阪ガスは新日鐵君津と対戦した。大阪ガスはエース・山田幸二郎の乱調もあり、4-8で敗れる。浦口は8番ショートで出場。守備機会は無難にこなし、打つ方は4打数1安打で“可もなく不可もなく”という感じであった。
 翌18日の夕刻、阪神甲子園球場(大学野球の取材)にいた僕。携帯電話がジーンズのポケット内でブルブルと震えるのを感じた。ディスプレイには“浦口雅広→着信”と、表示されている。
「もしもし、どないしたん? こんな時間に珍しいなぁ」
「あぁ、ジョー…。ちょっと俺も取り乱してんねんけど、要件だけ伝えておくわ」
 少しの間があって、浦口は続けた。
「俺、来年、戦力外や。要するに引退っちゅうこと。今日、本社に呼び出されて通告されたんや」
 他人事ながら、僕は言葉を失った。31名も野球部員がいるチームで、昨日までのレギュラー選手が唐突に引退勧告を受けたのだ。
「…落ち着いたら、また連絡くれや。とにかく『お疲れ様』やったな…」

 浦口は冒頭の金村と違い、アマチュア野球の選手である。しかし、高いレベルでプレーし続けて来た、一握りの選手だ。それは僕の友人であるからという贔屓目では決してない。客観的な視点。それでも、浦口は自身の引き際を“自分で決める”ことが許されなかった。この不景気だ。会社の事情や戦力構想もあるだろうが、一方的な暴挙のように思えて仕方がない。
「会社には残れるんやから」
 優良企業の言い分であるのかも知れないが、野球選手としてのプライドをズタズタに切り裂いた罪は重い。
 ちなみに大阪ガスで引退が勧告されたのは浦口のみ。しつこいようではあるが、客観的に余剰戦力と呼んでも差し障りのない選手は他にもいただけに合点が行かない。

 浦口、社会人野球は引退だが、しばらくは草野球で頑張って貰うで。そして、草野球の引退こそは“自分で決めてくれ”! まぁ、まだ当分、先の話しやけれどもな。

コメント

お気に入り日記の更新

テーマ別日記一覧

最新のコメント

日記内を検索