再会(前編)

2003年1月23日
 昨日、手抜き日記…を更新した後も、しばらくの間ゴロゴロ。喉の調子も回復の兆しを見せ始め、お腹も空いて来た。ゆで卵をパクツキつつ、ボーッと、テレビを観る。
 最近、14:00〜 再放送の『愛人の掟』(ABC)はさり気なくチェックしている番組。もう中堅女優の域に差し掛かっている!? 主演の水野真紀がどうも気になってしまうのだ。
 関西圏の方は分かると思うのだが、テレビメディアにおける水野の露出は、それはもう半端ではない。その大方は、大阪ガスのコマーシャルなのであるが、常に役柄は“キレイな若奥様”といったところ。これは、かつて“キレイなお姉さん”として、パナソニック(松下電工)のコマーシャルに出演していたイメージの延長だろう。
 また、『魔法のレストラン』(MBS/毎週木18:55〜)の影響も大きいように思える。どう考えても、水野は番組を仕切るキャラクターではないのだが、ホステス(あくまでも司会進行役)となり、ゲストを迎える。そして、清楚感が溢れるエプロン姿で、手際良く料理やデザートをササッてな具合に作り上げてしまう。聞けば、水野の趣味は料理。女優業を一時休業してまでも、料理留学していたと言うではないか。
 この戦略!? はズルイ。30歳目前の独身男にはビンゴやわ。きっと沢口靖子で学んだんやろうなぁ、東宝さん。同じ失敗は繰り返さんと。水野の売り出し方は間違っていない。『スチュワーデス刑事』(フジテレビ/金曜エンタテイメントのシリーズ)では、財前直美の脇を固める準主役扱いではあるが、水野に“萌え”を抱いている男も少なくないはずだ。僕も既に“萌え”の寸前まで来ている…。


 さて、そろそろ本題に入ろう。まぁ、こんな感じに平日の昼下がりを過越していたのだが、
「これでは今日、何もしないで終わってしまうやんか」
 と、気付かされる。東宝の術中にハマっている場合ではない。すぐに着替えて、家を出た。

 行先は市立西宮高。僕の家から、自転車で6〜7分もあれば到着する。
 あまりにも有名であるが、甲子園(夏の選手権大会)の開閉会式の際にプラカードを持って、行進の先導役を務めるのが市立西宮高2年生の女生徒。これに憧れて、入学を希望する女生徒が多いという話しも聞く。
 公立校ながら、野球部もこれまでに甲子園出場3回(63年第35回選抜大会、63年第45回選手権大会、第36回選抜大会の3季連続)。また、昨秋の秋季兵庫県大会でも、39年振りにベスト8入りを果たし、近畿・兵庫県の“21世紀枠”にも推薦された。

 市立西宮高の監督・徳山学は93年第65回選抜大会で、川西明峰高を甲子園に導いたことがある。なぜ、それを知っているかと言うと(別に高校野球オタクではない)? 実は、僕と徳山は面識がある。何度か西宮北口近辺の飲み屋で一緒になっていたのだ。
「是非、ウチのグラウンドにも遊びに来て下さいよ。今のチームは“ド根性”で頑張っていますから」
 そのように、いつも徳山は声を掛けてくれていたのである。

 15:40〜 練習開始。まだ冬場のトレーニング期間なので、球児は全員、ジャージ姿。各自でウォーミングアップを済ませると、内外野別れてのノック。そして、監督の徳山がグラウンドに現れると、外野手が走者になって、投内連携のノックが始まった。
「例年はもう少し仕上がりが遅いんやけどね」
 ノックを終えて、汗をぬぐいながら徳山が僕の方へ歩み寄って来た。
「確かに、この時期に投内連携はまだ早いですよね」
 僕が相槌を打つと、
「2月にウチで審判講習会があるんですよ。その時にポロポロやってる訳にもイカンでしょ。だからですわ」
 と、仕上がりが早い理由を説明。

 その後、徳山は練習方法や目的、中心選手などを教えてくれる。その時、僕の目前を1人の球児が横切った。
「あっ、関口君や。拓君やわ」
 心の中で確信した。
 関口拓は現在、高校1年生で、市立西宮高の野球部に所属。僕は彼の小学生時代を知っている―。


 大学生の時、僕は腰椎椎間板ヘルニアを患い、西宮市民病院に入院していた。
 6人部屋の病室は、僕を除いては皆、2〜3日で退院して行く軽症の患者ばかり。長くても、せいぜい1週間。入院生活2週間程度で、僕は病室の主になってしまった。
 左隣のベッドが空いたと思っていたら、すぐに次の入院患者がやって来た。無精ヒゲの大男で、熊みたいであった。でも、表情はすごい柔和。
「関口って、言いますねん。すぐに退院する予定やけれどもヨロシク〜」
 明るい声で挨拶された。僕も簡単に初対面の挨拶を済ませるが、この陽気で大柄な男を知っているような気がする。
「関口、関口…。えっ、もしかして、野球選手だった。なんてことは?」
「すごいなぁ、自分。僕のことを知っているなんて。ちょっとだけピッチャーやってました。阪急でね」
 
 78年、江川卓の“空白の一日”問題で、ジャイアンツはドラフト会議をボイコット。その時のブレーブス(現在はオリックスに譲渡、ブルーウェーブ)1位指名が関口朋幸である。同期入団には石嶺和彦、山森雅文らがいた。
 関口のプロ野球での成績は下記の通り。
 実働12年、158試合、12勝15敗13S 防御率4.18
 ドラフト1位選手としては、いささか物足りないかも知れないが、12年間もプロの世界で生き抜いて来たのは立派の一語に尽きる。

 関口は引退したものの、現役時代から悩まされていた肘の軟骨(俗に言うネズミ)除去手術をする為に入院。
「いやぁ、右肘が伸びなくてねぇ。顔も洗えないし、歯も磨けない。本当は手術なんかしたくないんだよ。コワイからねぇ」
 だが、仕事(スポーツ用品の代理店と、記憶している)にも支障があるので、手術を決意したと言う。
 関口は入院時の宣言通り、入院3日目には手術。手術後2日でスピード退院した。それでも、週に2回程の検査に訪れて来る度に病室を覗いてくれて、お見舞いの品を持って来てくれた。その関口の後ろにいつも引っ付いて来ていたのが、歩、拓、大の3兄弟。関口自慢の息子達であった。

 僕もやっと2ヶ月余りの入院生活を終えた。それからも関口。いや、関口家との交流は深まって行った。
「狭い家だけどさぁ、ゴハンだけはタップリ食べさせてあげるよ。いつでもおいで」
 関口家は奥さんのお母さんも同居していたので、6人家族。6人分の食事を用意するのも、7人分の食事を用意するのも変わらない。と、毎日のように招いてくれたのだ。
 また、食事だけでなく、時間がある時は、歩、拓、大3兄弟の少年野球の練習にも手伝いに行くようにもなった。
 当時、小学6年生の歩、小学4年生の拓とは、よくキャッチボールをしたものである。

コメント

お気に入り日記の更新

テーマ別日記一覧

最新のコメント

日記内を検索