思い入れ

2003年3月22日
 時には
「手を抜いているな」
 と、思われる日記も書いているかも知れない。でも、その時のベストは尽くしているのだ。言い訳染みているかも知れないけれども…(苦笑)。

 雑誌などに寄稿するものも当然、必死、真剣に書いている。
「原稿料、いくらなん?」
 周囲から、そのように尋ねられることもあるが…原稿料の高い、安いで区別する器用さも能力もない。まぁ、そんなことしたくもないけどね。

「自分、大好きっ!」
 特別に思ってもいないが(嫌いじゃないけどね)、自身の書いたものを読み直すことも多い。
「なんで?こんな表現やねん」
「もっと違う視点はなかったか?」
「ボチボチええ具合に書けているやん」
 などなどの感想を独りごちながら、取材したことやパソコンのキーボードを叩いていたことを思い浮かべる。

 基本的に書き上げた作品は“可愛い”ものである。満足しているものは皆無に等しいけれども。
 まぁ、言うなれば、僕の“分身”だ。

 昨年、『Sportiva』(集英社)に《さらば、西宮スタジアム》を寄稿した。僕が出来、不出来の評価を下すことは無理であるが、個人的に思い入れの強い“分身”であることに間違いはない。それは、僕自身が学生時代に西宮スタジアムでプレーした経験もあるし、昨年もアメリカンフットボールの試合を観る為に何度か足を運んだ。非常に愛着があったからであろう。

 話しは変わる。
 昨日のスポーツ新聞に山内久司の《必殺!世相学》たる読み物があった。その一部を要約すると、下記の通り。
 あるワイドショーで、宝塚ファミリーランドがなくなるのを女性達が声を揃えて惜しんだ。
 その時、落語家の桂ざこばが
「そない言うけど、あんたらファミリーランドへ行くんか?中座でもそうや。なくなると、惜しい、惜しい言うんや」
 と、言い放った。

 ムムム…、ごもっともな話しだ。
 その場の空気に同調して
「惜しい、寂しい」
 と言うのは簡単な話しである。今、行なわれている戦争の話しも然り。僕自身も一昨日に少し触れてみたけれども、やっぱり訴えるものは少ないように思える。偽善で書いたつもりもないんやけれどもね。
 結論として、外から眺めているだけ。知識で理論武装したところで、語れることはない。そういうことになる。

 今日から(ちょっと天候が心配やけれども)、全国高校野球選抜大会。センバツが幕を開ける。あくまでも観戦する立場ではあるけれども、単に眺めているだけの傍観者にならないように留意したい。少しでも“生の空気”を肌で感じ、心の中の原稿用紙がいっぱい埋まるように。甲子園球場に通い続けたいものだ。
 そして、思い入れのある“分身”。あるいは、そのベースになるものがたくさん生まれたら良いな。って、考えているのはイヤラシイかな???まぁ、仕事なので御容赦。

 それでは、甲子園球場に行って来ますっ!

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