あれから10年

2005年1月16日
 これまで31年余、生きて来た中で。生命の危機を感じたことが3回ある。いや、2回はほとんど覚えていないわ(苦笑)。
 1回目は小学3年生の時に交通事故でオートバイに轢かれて意識不明…約1ヶ月の入院生活。
 2回目は小学4年生の時に硬球を鼻に当てて意識不明…約2ヶ月の入院生活。(鼻・口・耳からブワーッと血を噴き出したらしい)

 ただ、3回目はハッキリと覚えている。

 95年1月17日。
 僕は筋肉痛と二日酔いで、彼女の家のコタツの中で眠っていた。
 床の下からゴーッと轟音が鳴り響いたので何となく目を覚ますと、不意に目の前の世界が激しく揺れた。決して二日酔いのせいではない。暗闇の中で四方から何かが軋む音を立てており、地震だと気付くのにしばらくの時間を要した。
 とても長い時間に感じた。ひとまず揺れも収まり、暗闇にも目が慣れて来た。テレビや電子レンジはフローリングの床の上に叩き落とされ、壁際に接していたベッドも30〜40?も壁から離れている。ベッドの上では布団にくるまり彼女が怯え、震えていた。
 そんな彼女の手を引き、マンションの外へ出ようとする。ZIPPOの灯火だけを頼りにグチャグチャに散乱した足元を避けながら玄関のドアを開けた。ガスの臭気にすぐに気付く。慌ててZIPPOの灯火を消す。彼女の住んでいたマンションのブロック塀が倒れていた。道路も地割れがしているし、隣の民家はベッチャと潰れて平行四辺形に。近くにあった墓地の墓石もなぎ倒されていた。

 それから、とにかく経験のしたことがない色々なことがあった長い1日。
 僕が住んでいたマンションも遊園地の“びっくりハウス”のようになっていた(全壊)。見慣れた街の景色が瓦礫の山となり、完全に潰されてしまった古い下宿荘から遺体を引き出す作業もした。自分が生きていることの境界線をよく理解出来ないまま―。
 
 夜は度重なる余震に驚きながら、ある高校の体育館で毛布にくるまっていた。彼女や友達と話していても、あらゆる不安は消えなかった。炊き出しで貰った2個のオニギリの米粒の一つ一つを噛み締めた。

 阪神淡路大震災に関してはまだまだ書きたいことがたくさんあるのだが、今日はこの辺にしておこう。

 僕はその後、埼玉や東京にも住んだが、現在は10年前と同じ西宮で暮らしている。
 日頃、何気なく過越しているけれども、
「震災の前は〜」
 という会話を御近所さんと今でもよくする。

 あの忌まわしい震災の何を忘れてはいけないのだろう?
 僕自身の中で漠然とした形では存在するが、どう伝えて良いのか分からない。嗚呼、無力だ…。

 大それたことは出来ないけれども。今後、少しでも“スポーツライター”というよりは“モノカキ”として成長。震災のことを伝えるということもしなくてはならないだろう。出来れば、スポーツというフィールドを通して。だって僕もあの震災を生身で経験したのだから。10年という歳月が流れても、まだ震災の傷跡は完全に消えていない。ネガティブな考え方ではなく、いつまでも消えないものなのかも知れない。だから、風化させてはならないのだ。

 支離滅裂で上手にまとめることは出来ないが…10年前に震災で尊い命を落とされた方々に合掌。 

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