MVP

2002年12月1日
 昨日も草野球。11月のスケジュール表を改めて確認してみると、毎週土曜日は草野球に興じていた。ダブルヘッダーの時もあったので計6試合をこなしたことになる。特別に多い訳ではないが、投手として4試合も登板(先発完投3、リリーフ1)していることを考えると、肉体の疲労度。とりわけ右肩は悲鳴を上げている。なんせトレーニングもほとんどしていないのだから…。
 気合いだけは入っていたが、本音を言うと、登板したくなかった。ホンマに肩痛いんやもん。もう肩のどこが痛いかも分からない。ボールを投げる度に右腕全体に電気が走るような痛みを覚える。それでも、僕はマウンドに立たなければならなかった―。

 僕が所属する“CBGBイージーズ”は昭和40年生まれの人間が多い。
 奥川明、大部雅裕、岩戸浩明、高野好司、瀬戸山良二…などなど。大部は尼崎東高出身の高校球児。高野は神戸学院大時代にベストナイン(二塁手)に輝き、瀬戸山は名門・江の川高で厳しくもレベルの高い野球を経験している。さらに親交の深い“ジェイルバード”の宇都和寛、梅原勇作、土田政範らも昭和40年生まれで、あとは1〜3歳の範囲でメンバー補強をすれば、容易に“40年会メンバー”のチームが結成されるのである。
 この40年会の面々が
「このチームで若手と試合したいもんやなぁ」
 と、口を揃える。そして、奥川がすぐに段取りを組んで“40年会vs若手”の実現に至ったのだ。

「若手チームはお前が仕切るんやで」
「30歳目前の分際で、若手を名乗るのはちょっと恥ずかしいんですけどぉ」
「アホ〜、充分に若手じゃい」
 奥川とのやり取りがあって、僕は寄せ集めメンバーでオーダーを組んだ。
「く、苦しい…」
 思わず僕は頭を抱えた。寄せ集めメンバーに物足りなさを覚えたのではない。“40年会”もリードオフマン・岩戸、強打の高野は都合により欠席。ただ、奥川、大部を筆頭に投手陣は充実している。しかし、こっちは投手がいないのだ。助っ人でやって来る大阪ガス・稲田学を登板させる訳にも行かないし…。

「島尻さん、今日もストレート中心で行きますか?」
 試合前の投球練習後。捕手の川北信也が尋ねて来た。
「う〜ん…。なんかストレートが走らんわ。どないしよう?」
 僕は右肩をゆっくり回しながら、答えにならない応対。不安と迷いを引きずったまま試合は始まってしまった。

 嫌な予感は的中。1回表、1番、2番と簡単に打ち取るが、ストレートで空振りが取れない。3番の瀬戸山にアウトコースのストレートをレフト線に巧く流し打ちされてツーベース。続く4番の宇都はシュートで詰まらせながらもセンター前に落とされ、アッサリと1点を失う。
 その後も波に乗れない投球が続く。依然、ストレートはカットされ、決め球であるはずのスライダーも簡単に振ってくれない。また、ピッチャーゴロをファーストへ悪送球するなど“若手”のピンチを拡げて、3回までに3失点と散々な内容であった。
 かたや“40年会”は先発投手の大部が緩いボールを軸に、4回ワンアウトまでパーフェクトの好投。勝利の女神は“40年会”に微笑み掛けていた。

 試合はその後、膠着状態に突入する。僕は走らないストレートに見切りを付け、スライダーとチェンジアップ気味のシュート主体の投球スタイルに切り換えた。いつもより奪三振ははるかに少なかったが、僅か4球で終わったイニングもあり
「ふ〜ん、悪ければ悪いなりの投球術ってあるんやなぁ」
と、頭ではなく、体で実感していたのだ。肩に痛みを覚えているだけに、球数が少なくて済むのは大助かりだ。“身に染みて分かる”とはこういうことを言うのだろう。

 6回裏。ようやく“若手”は大部のスローボールにタイミングが合って来る。稲田がレフト前にタイムリーヒットを放ち、4番・久能令司が四球で粘る。5番の僕に打順が回って来たところで、1−3と2点のビハインドで、ツーアウト満塁。2塁走者が稲田であることを考えると、僕がヒットを打てば同点にはなるはずだ。いつになく集中して、打席の足場を整えた。しかも、これまでに大部のスローボールに翻弄されて、サードゴロ、ピッチャーゴロと完全に抑えられている。
 初球、緩いインコースのカーブ。自打球が左足甲に当たるファール。まだポイントが早い。
「振り遅れることは絶対にないんやから、詰まり気味でええんや」
 心の中で確認をして、2球目のアウトコースのストレートを見逃す。判定はボール。そして、カウント1−1から真ん中低目のストレートが来た。バットを一閃すると、打球はライナーでセカンドの頭上を超える。
「よっしゃ、これで同点や」
 ファーストキャンバスを蹴ると、センターの宇都が送球を焦り、後逸している。久能も一塁から長駆ホームイン。遂に“若手”が“40年会”を逆転した。

 7回表。僕はなんとか軟投で“40年会”を封じ、完投勝利。投打に渡っての活躍が認められ、MVPに選ばれた。
 1本のヒットが勝負所で出たのは素直に嬉しかったし、投球面では苦しかったけれども、言葉に出来ない何か新境地みたいなものを掴むことが出来たような気がする。それだけに、このMVPは価値がある!??? 草野球人生の分岐点になるかも知れない。

 MVPで何か貰えるのか?
 な〜んにも貰えません。ただMVPと呼ばれるだけ(苦笑)。
 おまけにスポーツバーCBGBで行われた打ち上げでは、カウンター内にてメッチャ働きました。
 カクテルも作ってしまう(やや不安)スポーツライター。世界広しと言えども、僕くらいやろうなぁ。

 みなさま、ホンマにお疲れ様でした。また、対戦しましょうっ! でも、今度は浦口雅広(昨日は欠席)を投入しますので、悪しからず。

黄金の左腕

2002年12月2日
 NHK『サンデースポーツ』の特集で“延長17回の主役達は今”という特集が放映されていた。
“延長17回”が指し示すのは僕が以前にも書いた、4年前の第80回全国高校野球選手権準々決勝・横浜高−PL学園高の激闘である。
 主役達は両校のキャプテン。小山良男(横浜高→亜細亜大)捕手と平石洋介(PL学園高→同志社大)外野手の2人。ドラフト会議を挟み、野球への熱き想い。そして、あの“延長17回”を経験したことが、どのような意味を持っているのか? という内容のものであった。

 平石、バファローズへの入団が決まった大西宏明(近畿大)外野手らを中心に、PL学園高の同窓生が鍋を囲んでいるシーンが映し出された。その時、ちょうど平石の対面に座っていたのが、僕もしょっちゅう顔を合わせている稲田学(大阪ガス)投手。“延長17回”でPL学園高の先発投手としてマウンドに立った男である。
テレビの画面では、稲田はいつもと同じように左手で箸を持ち、鍋を突っついている。

「島尻さん、ここですよ」
 そう言われて、稲田の左肘を触らせて貰うと、内側に固い突起物があることに気付く。左肘を手術した際に埋め込まれたボルトがまだ残っているのだ。
 稲田は社会人野球に進んだ後はほとんど登板の機会もなく、痛めた左肘のリハビリに励んでいる。また、試合ではネット裏の席が指定席。あの“黄金の左腕”でボールペンを握り、データを取るチャートシートに小さな字を書き込んでいるのだ。ただ、稲田は漠然とチャートシートにペンを走らせている訳ではない。それがよく分かるのは、一緒にプロ野球のナイター中継を観ている時。
「次、ストレート投げたらヤバイっすよ」
「外にスライダーやな」
「ここは絶対、落として来るところっす」
 稲田は配球をバシバシと言い当てる。
“岡目八目”、外から客観的に観察していると、よく分かるとは言うものの稲田の推測にはいつも驚かされる。
「いやぁ、ムダにデータ班歴が長いだけっすよ」
 と、おどけてみせるが、これは絶対に照れ隠し。雑務と思われるデータを取る仕事でも、稲田は真剣に野球を観ているのだ。
「故障から復活したら、絶対にこの経験を活かしてやるんや」
 口に出すことはないが、そのような気持ちでいるに違いない。野球を愛しているからこそ。

「うわぁ、こんなん要らんっちゅうねん!」
「ええツモやわ〜」
 稲田は麻雀も“黄金の左腕”で打つ。是非、来年は本業の方でも“黄金の左腕”を披露して欲しいものだ。
 

お土産

2002年12月3日
 早いもので12月を迎えた。ケンタッキーのカーネル・サンダースはサンタクロースの衣裳を身にまとい、ショッピングビルのディスプレイもツリーを模ったものや、リースなどが目立つようになっている。耳に飛び込んで来る音楽もクリスマス・サウンド一色。街並みはスッカリとクリスマスモードに突入しているようだ。
 僕の家の近所に名前が付いているかどうかも分からない、小さな用水路(ドブ川!?)がある。そこに架かっている上昭和橋の両サイドにも、いつの間にか水面に対して平行を保った電飾が施されているではないか。豪華とは言い難いのであるが、橋を渡る度、幻想的に浮かび上がる光は心を和やかなものにさせてくれるので、僕の“お気に入りルート”になっている。

 夕方、『野球狂4』(関西テレビ)の打ち合わせがあるので、家を出る。既に辺りは暗くなり始めているので“お気に入りルート”を通って、僕は阪急西宮北口駅までノンビリと歩みを進めた。
 梅田駅に着き、JR大阪駅までの僅かな距離を歩く。先入観もあるのだろうが、行き交う人々がせわしなく、まるで“THE師走”のエキストラでもあるかのように先を急いでいる。
「こんなノホホンと歩いている僕は“社会不適合者”なんかな?」
「もうサラリーマンには復帰出来へんな(する気もない)」
 などと、くだらないことを考えている間に関西テレビのある扇町に到着していた。

 関西テレビの8階にある編成部会議室でのどかな打ち合わせが始まる。
“野球狂”な男6人が集まり、ゲスト案、ゲストの出所、全体の流れ、企画、コント…を真剣かつ楽しく(バカバカしく!?)ディスカッション。幾つか大爆笑のネタを披露したいのだが、これはOA時のお楽しみということで今回は御勘弁願いたい。
 
 打ち合わせを終え、真っ直ぐに帰宅。と、なるはずであったが、スポーツバーCBGBにちょこっと立ち寄る。オレゴン州ポートランドへ旅行に行っていた高野好司が店にいるはずだからだ。
 CBGBのドアを開けると、真新しいヤンキースのスタジャンが視界に飛び込んで来る。案の定、高野はカウンターでグラスを傾けていた。
「島尻〜、カッコええやろう。タッカン(高野のニックネーム)が買うて来てくれたんやでぇ」
 マスターの奥川明が手にしていたのは、アイスホッケーのゴールキーパータイプのキャッチャーマスク。マスクとヘルメットが一体化しているヤツで、これは草野球チーム“CBGBイージーズ”の正捕手・渡辺昭紀が
「僕、形から入るタイプなんでね。MLBのキャッチャーのようなマスクをかぶってみたい」
 と、欲しがっていたもの。それを高野がお土産として購入して来たのだ。
「スポーツ店、6件も回ったで」
 高野が費やした時間と労力の結果、目の前にあるのは真っ黒でシンプルなデザインが人気のCooper社製のキャッチャーマスク。マジでカッコいいっす! このキャッチャーマスクが今度の試合から使用されるのかと思うと、ワクワクしてしまうのは“野球バカ”だから???
「俺もキャッチャーに転向しようかなぁ」
 と、奥川が冗談なのか本気なのか分からないコメントをして、カウンター内でキャッチャーマスクを嬉々としてかぶっている。まるでクリスマスの朝、サンタクロースからのプレゼントを靴下の中から取り出した子供のように。
「物騒な店やなぁ」
「一見の客が入って来たら、ビックリして帰りよんで」
 僕らもヤンヤ言いながら、キャッチャーマスクをかぶる順番を待ちわびている。ちょっと時期は早かったが、実に“タッカン・サンタ”は素敵なプレゼントを届けてくれたものだ。

 余談ながら、僕が“タッカン・サンタ”から貰ったプレゼントは“アイ・ブラック”という逸品。よくMLBやNFLの選手が、デーゲームで目の下を墨などで黒く塗っているのを見掛ける。あれは別に奇抜なメイクをしている訳ではなく、太陽光を少しでも和らげる役目を果たす古典的手法なのだ。“アイ・ブラック”はその行為を簡易化するアイテム。リップスティックと同じような形状で、手も汚さずに簡単に塗れるというコンセプトで売っていたのだと言う。
「島尻、次の試合は塗って来るんやで。絶対に似合うから」
「はい、分かっていますよ。へぇ〜、Franklin社製なんやぁ」
 Franklin社とはバッティング・グローブ(革手袋)で有名な会社。僕のミーハー心(野球道具オタク心とも呼ぶ)に火が点いたのは言うまでもない。

 この日記を書く前にシャワーを浴びた。当然、その前に鏡の前で“アイ・ブラック”を手に取る僕。
「おっ、ホンマに似合うやんか。ええ感じやわ」
 一人で悦に浸っていたのだが、他人からは単なる“極悪プロレスラー”にしか見えないかも知れない…。それは面構えのせいか? 体格のせいか? 次の試合で、チームメイトの判断に委ねようと思う。
 色彩感覚に欠けたインディアンとだけは絶対に呼んでくれるなっ!

ドリームチーム

2002年12月4日
《長嶋JAPAN“ドリームチーム”でアテネは金メダル目指す》
 長嶋茂雄(ジャイアンツ終身名誉監督)が日本代表チームの監督に就任した。強化本部長も兼ねており、実質の全権監督。任期も03年11月のアテネ五輪アジア予選、04年8月のアテネ五輪も含め、無期限。“長嶋JAPAN”の長期政権が誕生したのである。

 ここで、あえて長嶋の選手時代に残した実績、功績。監督としての手腕などに言及するつもりはない。また、同様に日本野球界のみにとどまらない日本(殊に高度成長期)に及ぼした影響力に、快活で求心力のある人物像にも触れない。ただ、長嶋の語る“ドリームチーム”とは一体、何なのだろうか? それにだけは素直に頷く気持ちになれない。リップサービスだけが先行。“ドリームチーム”という単語が持つ響きに酔いしれているだけのように思えて仕方がないのだ。
 
 長嶋は強化本部長という立場でこの1年間、数々の試合(高校野球、大学野球、社会人野球、国際大会)を視察して来たと、報じられている。そして、綿密な戦力構想、分析を重ねて、長嶋自身の中でイメージは膨らんだ。世界の舞台で結果(勝利)を残すには、日本球界の最高峰プロ野球からトップクラスの選手を派遣して貰う。シーズンの絡みなどもあるので、現在は各球団から2名までという制約こそあるが、単純に2名×12球団の豊富な人材。その中から、投手、野手と魅力的な“ビッグネーム”を揃える。ジャイアンツで第2次政権(93〜01年)を執った長嶋のスタイルと、基本的に変わり映えしない。それが“ドリームチーム”の構想だと受け取ることが出来る。

 既に候補選手の名前も何人か挙がっており、楽しみな部分もある。豪華布陣がJAPANのユニフォームを着て、日の丸を背負って、戦う姿は魅力的だ。しかし、現状をよく考える必要がある。日本の野球はレベルが高いと言われながらも、00年のシドニー五輪以降、国際大会で辛酸を舐め続けている。その要因をシッカリと突き詰めて、把握しているのだろうか? ただ単純に
「あそこの国はトップクラスの選手を揃えているから、勝っているんだ。日本も“ビッグネーム”をかき集めれば、きっと良い勝負が出来るに違いない」
 その程度の認識で“ドリームチーム”とはしゃいでいるのならば、アジア予選通過も危惧される。
 確かに野球は選手がプレーするもの。時には監督の采配も抜きにして、個々の突出した能力でも勝ち上がれる競技(スポーツ)なのかも知れない。でも、それだけでアジア予選、五輪予選、五輪本選と勝ち進んでは行くのは困難だと思われる。マスコミは短期決戦と報じるが、それは日本プロ野球やMLBのペナントレースと比較した場合であって、むしろ長丁場の戦いだ。そこで、喜びや苦しみを分かち合うのが野球という団体スポーツの一つの醍醐味。

 長嶋本人も重々、自覚しているだろうが、現時点で日本球界の“切り札”。最後のカードが長嶋なのである。それだけに戦う前から、軽々しく“ドリームチーム”を口にして欲しくない。選考された選手が個々の役割を果たし、それを長嶋が束ねる。そして、結果を残して行く。いや、勝つに越したことはないが、国民、野球ファンがJAPANの戦いぶりを観て、夢と感動を覚えた時。初めて“ドリームチーム”と呼べるのでは―。

ベストゲーム

2002年12月5日
「今年のベストゲームは?」
 最近、このような質問をよく受ける。
 無名校同士の高校野球地区予選、優勝を決める大学野球のリーグ戦、休部決定の社会人野球チーム、ホームラン記録の懸かったプロ野球の試合…などなど。
 1年間でプロアマ問わず、170試合超も野球観戦をした。友人であるフジテレビアナウンサー・八馬淳也から貰ったスコアブックもすぐに使い果たし、舎弟!?のTBSアナウンサー・藤森祥平、熱血虎党のGAORA・薦田一行からも譲り受けた。テレビ局のスコアブックは市販のものよりもマスが大きくて、非常に記入し易いのだ。
 3冊のスコアブックを目前に並べるだけで、様々なシーンが思い浮かぶ。だから、ベストゲームを1試合だけ挙げるのは困難ではあるが―。

 時計の針を戻そう。5月12日のGS神戸、関西学生リーグの立命館大−京都大、近畿大−同志社大(共に2回戦)のカードが組まれていた。
 前日、同志社大は最終回に追い上げるが、近畿大が4−2で振り切り、先勝した。そして、この2回戦で近畿大が勝ち、勝ち点を挙げれば、京都大との対戦を残すのみでリーグ優勝に大きく前進。逆に同志社大が勝てば、3回戦にもつれ込むのは勿論のこと、同志社大が勝ち点を挙げる可能性も膨らむ。そうなると、この時点で近畿大、同志社大、関西学院大の3校が優勝争いに踏みとどまり(勝ち点、勝率で肩を並べ)、関西学生リーグ史上初の“三つ巴プレーオフ”の実現も考えられる。そのような背景があって、プレーボールは告げられたのだ。
 負けは許されぬ同志社大は前日に5回ノックアウトを食らったエース・渡辺亮が2試合連続となる先発のマウンドに登る。自慢の速球も冴え、スピードガン表示は148?を計時する。チェンジアップも要所で決まり、強力な近畿大打線を相手に8回まで散発の3被安打、7奪三振。ほぼ完璧と言って良い内容であった。また、打線も奮起して、7番打者の桑原宏弥捕手がチャンスメイク。これを1番・執行貴義内野手、2番・藤村太地内野手が適時打を放ち、小刻みに得点を重ねる。

 僕は『週刊ベースボール』(ベースボールマガジン社)から“大学野球リポート”の依頼を受けていたので、珍しく原稿用紙にペンを走らせていた。原稿の締切はこの日の20時だ。ノートパソコンを持ち歩くのも面倒臭かったし、夜は知人の結婚式2次会でミナミ(大阪)まで行かなくてはならない。記者席で下書きだけは済ませておこうという魂胆であったのだ。
《同志社大雪辱。この結果、関西学生リーグは史上初の“三つ巴プレーオフ”までもつれ込む可能性も出て来た〜》
 星取表とにらめっこをして、近畿大、同志社大、関西学院大の勝率を計算。スコアブックもボールカウントは書き込まず、結果だけを記入するのみ。試合が終わる前に、原稿の下書きも書き終わった。後はゲームセットを待つだけ。しかし、そこから劇的なドラマは始まったのだ。

 9回裏、近畿大は先頭打者の9番・藤田一也内野手に代打を送る。福島幸嗣外野手が左打席から放った打球はファーストへの内野安打となる。続く、大西宏明外野手はライト前ヒットで、代走に出ていた広瀬亮外野手も積極的な走塁を見せる。ノーアウト1、3塁の状況で田中雅彦捕手がキッチリとライト前にタイムリーヒット。林威助外野手も4連打となるショートへの内野安打で繋ぎ、ノーアウト満塁と依然、近畿大はチャンスを迎えている。
「おいおい、こっちは原稿も書き終わっているんやから」
 正直、浅はかな僕は近畿大の粘りを自分勝手な理由で迷惑に感じていた。
 4番の中村真人内野手はセンターに大飛球。三塁ランナーの大西はタッチアップで悠々とホームインをするが、2塁ランナーの田中雅が判断を誤り、飛び出していた。同志社大のセンターで主将も努める平石洋介外野手は慌てることなく、2塁に返球。犠牲フライで1点は追加したものの、ダブルプレーも成立。ノーアウト満塁がツーアウト1塁になってしまった。スコアは前日と同じ4−2。
「さすがに近畿大もここまでやな」
 近畿大の“イケイケムード”が田中雅の走塁ミスによって一気にしぼんだ。その瞬間である。渡辺がここまでノーヒットの田中篤史外野手に投じた初球、真ん中高目のやや甘いストレート。田中篤は迷いもなくブッ叩いた。打球は低い弾道のまま、広いGS神戸(中堅122?、両翼99.1?)のライトスタンド中段にアッという間に突き刺さった。まさかの同点ツーランホームランが飛び出したのだ。両拳を突き上げて、お祭り騒ぎのナインに迎えられる田中篤。マウンドでうずくまる渡辺。あまりにも対照的。
 尚も近畿大は攻撃の手を緩めない。主将・米田甚哉内野手が渡辺の足元を抜く、センター前ヒット。ようやく同志社大の吉川博敏監督がダグアウトから出て来て、渡辺の降板が告げられた。しかし、2番手・吉田智彦投手も予想外の登板だったのだろう。きっと15分前までは同僚の渡辺が完投すると思っていたに違いない。そのような動揺を突かれて、米田に盗塁を許す。さらに制球の定まらない吉田はワイルドピッチで米田を3塁まで進めたうえに松丸文政内野手にはフォアボールを与える。そして、右バッターボックスには米倉佑典投手に代わる代打・栗本優司外野手が立つ。また初球であった。吉田のストレートにやや差し込まれながらも、打球は一塁手・藤村の右横を抜け、二塁手・中江拓雄内野手も飛び付く。中江の差し出したグラブにゴロは収まるかと思われたが、僅かに届かない。代打逆転サヨナラタイムリーヒットで近畿大は狂喜乱舞。殊勲打の栗本はチームメイトから手荒な祝福を受けている。榎本保監督と南栄治コーチまでもが手を取り合って、飛び跳ねている。同志社大のライト・松田尚樹外野手は無造作に、今にも止まってしまいそうな打球を拾い上げた。同志社大のダグアウトは一様に呆然と立ち尽くし、守備に就いていた選手は天を仰いだり、肩を落としたり。主将・平石はセンターの定位置で膝まずき、しばらく動けない。

「スゴイ試合を観てしまったな。“勝負は下駄を履くまで分からない”ってことは、こういうことなんや」
 僕は同志社大が勝つであろうという前提の元、書かれた原稿用紙をグシャグシャに丸めた。

 帰り際、平石と通路ですれ違った。
「すみません、無様な試合で…」
 平石は僕に頭を下げたが、何も言えなかった。いや、何と応えて良いのか分からなかった。ただ、
「無様な試合ではなかったぞ」
 と、心の中で呟くのが精一杯であった。
 体育座りで頭を抱え込んだままの渡辺を新聞記者達が取り囲んでいる。しかし、僕は悪夢の敗戦を喫してしまったエースの横を足早に通り過ぎ、神戸市営地下鉄の改札へ急いだ。

 確かに、たくさんの野球の試合を観ていると、漠然とグラウンドの空気や雰囲気で展開が読める時がある。でも、これは根拠がなく、絶対ではない。そのことを痛感させられた一戦。僕はそれ以来、試合終了前に原稿を書き始めるという愚かな行為はしていない。

 近畿大硬式野球部 島和也マネージャー殿
 同志社大硬式野球部 土井慎太郎マネージャー殿
―三宮駅に着いても、まだ鳥肌が引きませんでした。素晴らしい試合をありがとう。感謝です。
 
 僕は野球の試合を観て、生まれて初めて手紙を書いた。

僕の隣にいた男

2002年12月6日
 広池浩司と初めて会ったのは立教高入学直前。野球部の練習に参加させて貰っていた頃である。
 ヒョロヒョロと背が高く、手足が妙に長い。スポーツ刈りが少し伸びた学生服姿のヤツが部室に入って来た。
「越谷富士中の広池です。ピッチャーやっています。ヨロシク」
「えーっ、俺は立教中の島尻。キャッチャーか内野やろうと思っている。ヨロシク」
 今、考えてみれば、あまりにも素っ気ない挨拶であった。
 
 立教高野球部はほとんどの土曜、日曜。他校を招待して、練習試合を行なっていた。正式に入部した僕らはその練習試合の雑用係からスタートすることになる。
 桜の花が散りかけていた頃だから、まだ4月の上旬であろう。その日も僕と広池はバックネット裏で球拾いをしていた。ファールボールが出たら取りに行くのだが、幸いにバックネットが高かったので、頻繁にボールは飛んで来ない。さすがにボーッとは出来ないが、考えようによってはバックネット裏の特等席で試合を観ることが出来るのだから、雑用係の中ではAランクと言ったところか。
 その試合の細かいスコアは覚えていないが、とにかく同点であった。
「広池、ちょっと来いよ」
 ベンチ入りしている縦縞のユニフォームを着た先輩が、グラウンドから広池を呼ぶ。
 広池がダッシュでベンチの方へ消えたと思ったら、白い練習用のユニフォームのままヘルメットをかぶり、ピンチヒッターで出て来たのだ。
「おいおい、さっきまで隣にいたヤツだぞ」
 心の中でそのようにツッコミを入れていたら、広池のバットが一閃。打球は鋭い球足で1、2塁間を抜けて行った。多分、ツーアウトだったのだろう。2塁ランナーのスタートも良く、悠々ホームイン。広池はいきなりサヨナラ勝ちの殊勲打を放ち、次の試合から広池は縦縞のユニフォームを来ていた。
「コイツ、タダ者じゃないな」
 そう思わずにはいられなかった。

 広池は投手としての才能にも恵まれていた。高校入学直後で球速140?は出ていたに違いないし、大きなカーブのブレーキも半端ではなかった。しかし、それが災いして高校入学早々に肘を故障する。体力面や、ギッコンバッタンとしたフォームも問題であったのだが、連投が一番の要因。広池はそれ以来、完全に外野手としてプレーするようになった。
 
 僕らが最上級生になった時、エースは下級生であった。エースの責任だけではないのだが、僕らはいつも県大会ベスト16の壁を破れないでいた。
 敗戦後、部室に戻って来ると
「次は勝たなくちゃな〜」
「甲子園に行ったら、ファンレターたくさん来るのかな?」
「俺が打って、お前も打てば勝てる。そして、モテモテ」
 などと、実りのない話しをしていたのだが、キャプテンの広池だけはグラブを持って、下級生のキャッチャーとブルペンに入る。そして、投球練習を始めるのだ。
「俺がピッチャーだったら絶対に負けないのに」
 その気持ちだけは伝わって来たが、その後、確実に2週間くらいは
「やべぇ、肘が痛い…」
 と、広池はキャッチボールも出来なかったものだ(笑)。

 高校卒業後、僕も広池も大学で野球を続けた。広池は1年の春から立教大の4番打者。僕はスポーツ推薦で関西学院大へ進むが、見事に腐った…。それでも、高校時代に苦楽を共にした仲。年に1回は必ず会っていたし、12月のシーズンオフ、僕の住んでいる西宮まで車で遊びにやって来たこともあった。
 広池は立教大でもキャプテンを務め、活躍。しかし、プロに指名されることはなかった。立教大卒業後は野球をスッパリと諦め、全日空に入社。誰もが羨むエリート街道一直線であった。だが、社会人生活2年目。広池はいきなりプロ野球(カープ)の入団テストを受け、合格を果たす。しかも、高校時代に一度は諦めた投手として。
 広池本人からその連絡を貰った時、あのサヨナラヒット以上の衝撃を受けた。
「やっぱり、タダ者じゃないわ」

 ちゃんと話しを聞いた訳ではないが、恐らく、支配下登録選手枠の絡みがあったのだと思う。広池は入団テストに合格後、97年1月〜10月まではドミニカ共和国にある野球アカデミーで練習生という立場でプレーした。そして、97年秋のドラフト会議で8位指名を受けて、晴れてカープに入団したのである。

 ルーキーイヤーは開幕ベンチ入りこそ果たしたが、なかなか結果が出ない広池。俗に言う“エレベーター生活”が続いた。想像する以上に、苦しい時期だったであろう。
 しかし、4年目の今年。大ブレイクとまでは行かなかったが、4月14日(スワローズ戦、広島市民球場)に今季初登板。5回表から先発・鶴田泰の跡を受け、2番手としてマウンドに上がる。2−4と、2点のビハインドであったが、真中満、宮本慎也、稲葉篤紀を3人斬り。そして、5回裏にエディ・ディアスのツーランホームラン、新井貴浩のソロホームランで試合を引っ繰り返す。6回表、ロベルト・ペタジーニにセンター前に運ばれるが、続く古田敦也の時に三振ゲッツーでピンチの芽を摘んだ。その後は“お役御免”でマウンドを降りたが、試合はそのまま5−4でカープが勝利。待望のプロ入り初勝利を広池は手にした。

「なぁ、高校時代、お前がエースだったら甲子園に行けたかなぁ?」
「当たり前じゃん。行けたに決まっているよ」
 酒を飲みながら、広池とそんな会話をしたこともある。
 それだけに昨年、広池の結婚式にて、新郎新婦のお色直しを終えた後の入場曲が
♪ 雲は湧き〜 光溢〜れて〜
 全国高校野球選手権大会のテーマソング『栄冠は君に輝く』であったのは印象的であった。

 なぜ、今日は広池の話しを?
 それは僕に強い影響を及ぼした男だから。
 広池の行動が全てではないが、一つの理由、契機となり、僕もネクタイをほどき、スーツを脱ぎ捨てた。さすがにプロ野球の入団テストまで受けようとは思わなかったけれども…。
「高校時代、僕の隣にいた男も頑張っているやないか」
 何のアテも根拠もなかったが、僕はスポーツライターに転身。そして、現在に至る。
 2人共、まだ成功者ではないからデカイことは言えないが、緊張感のある生活の中、自身の力で這い上がって行く楽しみがある。後悔は一切していない。自分で選んだ道を信じるだけ。
 そんなことを書きたかったのかも知れない。

大人の入れ知恵

2002年12月7日
 バファローズとの重複指名の結果、スワローズが1巡目指名した高井雄平(東北高)がプロ入りに気持ちが大きく傾いているようだ。
 ドラフト会議前は
「ジャイアンツ以外ならば、進学か就職」
 ドラフト前日になって
「在京セ・リーグならば」
 選択肢の幅が広がったかのようではあったが、依然、プロ入り以外の進路として、東北福祉大、新日本石油も有力とされていた。
 そして、ドラフト当日。スワローズの選択権が確定した後に笑顔を作りながらも
「曇りのち曇りです」
 と、微妙なコメントを残す。それだけに高井の今後の決断には注目していた。

 さて、ここからは憶測の話し。邪推の領域に入る。
 僕のような仕事をしていると、様々な野球界の情報を耳にする。その中で一つの悪い情報が、野球に関わって来るゴロツキ。“野球ゴロ”と呼ばれる存在である。
 その実態は定かではないが、プロ入りを志す有望選手へ巧みに擦り寄り、
「良い条件でプロに入るのは当然のこと。また、野球引退後の人生も大事」
 甘い言葉を囁き、いつの間にかアドバイザー的役割。指南役、後見人を買って出て来る人物がいるらしい。特に、これまでにプロ入りの前例がないような高校、大学、社会人の間に入るケースが多いようである。有望選手を抱えている関係者は
「ふ〜ん、プロに選手を送り込む際には、こういう人物の存在があるものなのだ」
 それが常識であるかのように思い込んでしまうし、百戦錬磨のプロ側も狙いを定めた有望選手を確実に獲得出来るのならば、この“野球ゴロ”という存在を利用すれば良い。ただ、そこに高額、小額に関わらない金銭の動きが発生することは言うまでもないだろう。
 本来、野球界全体の隆盛、戦力の均衡化、契約金高騰の抑制を目的にしたドラフト会議はもはや有名無実化。そして、ここ数年の逆指名制度、自由獲得枠といった制度の確立はこのようなダーティーな歪みを助長させているだけのように思えて仕方がない。
 さらに、最終的に自身で下した結論であるのならまだしも、余計な“大人の入れ知恵”で野球人生を振り回されてしまうことになる選手はもっと可哀相だ。
 ドラフト会議の根本を見直さなければいけない時期を迎えているのは明らかである。

 今回、高井は御両親と相談したうえで、自らの決断でスワローズ入りすることになりそうだ。どうやら“野球ゴロ”の存在は無縁だったようである。是非、高く買われた力量を発揮、成長。そして、野球界に新風を巻き起こすことを期待したい。

 現在、バファローズで打撃コーチを務める正田耕三のプロ入り時のエピソードが好きだ。
 正田は和歌山県出身で、熱烈なタイガースファンであった。社会人野球の新日鐵広畑時代も、タイガースが勝った翌日のスポーツ新聞をスクラップする程。
 そして、84年秋のドラフト会議、正田はカープから即戦力の期待を受け、2位指名された。
「正田はガチガチの“虎党”やからな。カープには行かへんやろう」
 と、チームメイトの誰もがそう思っていた。しかし、正田は
「タイガースは好きやけれども、自分が野球でメシを食うのはカープ。喜んで行かせて貰います」
 即答でカープ入りを決断したらしい。
 その後の正田の残した輝かしい実績については割愛するが、プロ入り時の気持ち一つが野球だけにとどまらない人生を、大きく左右するようにも感じてしまう。

 今回、プロ入りの夢は叶わなかったが、光原逸裕(京都産業大→JR東海)投手は
「確かに好きな球団もありますけど、それは関係ないでしょう」
 と、秋季リーグ戦終了後に語っていたし、同様に平石洋介(同志社大→トヨタ自動車)外野手も
「プロの世界で勝負出来ることに意味があるんじゃないですか」
 熱い眼差しで想いをぶつけてくれたものだ。
 2人共、その気持ちを忘れずに社会人野球で一層の飛躍を。

 身の周りに、どれだけの人間が好きなことを仕事にしている? 相応しくない言葉かも知れないが、どこかでどうにもならない現実にぶつかり、妥協している人間が大半だろう。そのことを踏まえても、日本の最高峰と呼ばれるプロ野球から声が掛かったうえに仕事となるのは、とても名誉で幸せなこと。ここに的確なアドバイスではない、私利私欲にまみれた“大人の入れ知恵”という邪魔が入ることは許せない。

雑言

2002年12月8日
02/11/25 18:15
タイトル:『野球小僧』編集部より
12月7日(土)19:20受付開始 19:45スタート 池袋 OPUS ONEにて忘年会を致します。
御出欠の御返答をお待ちしております。

 上記のようなメールが届いたけれども僕は関西在住者。それになぜだか仕事がてんこ盛り状態。
「行きたいけど、無理っぽいなぁ…。うん、多分、無理やわ」
“野球日記”新参者なので御挨拶も兼ねて、出席するのが道理なのだろうが、あっけなく断念。交友のある“野球日記”の大先輩・谷上史朗に
「皆様に宜しくお伝え戴ければ幸いです」
 と、連絡を入れる。それで、今日も自宅でパソコンと向かい合っていたのだが…(>_<)
 まぁ、結局、晩は我がホームグラウンド・西宮北口で飲んでいました(苦笑)。


 金本知憲外野手のFAによるタイガース移籍に伴い、タイガースからカープへ、プロテクト選手30人を除いた選手名簿が提出された。
 FAで選手を手放した球団は人的補償(金本の今季年俸2億4000万円+プロテクトされていない選手1人)。もしくは金銭補償(金本の今季年俸の1.5倍=3億6000万円)を求めることが出来るのだが、今回、カープはどちらを選択するのだろうか?
 昨年、ブルーウェーブからバファローズに加藤伸一投手がFA移籍した際は、ユウキ投手が人的補償の対象となった。そして、あくまでも結果論だが、加藤投手は故障でシーズンのほとんどを棒に振り、登板は2試合のみ。一方、ユウキ投手は意地を見せて、後半戦からローテーションの柱にまで成長。規定投球回数には及ばなかったが、7勝1敗 防御率1.93という好成績を残しただけに注目したい。
加えて、野次馬根性丸出しで、プロテクトされなかった選手って誰なんやろう?
「予想以上の好選手がリストに入っていた。綿密に検討したい」
 と、カープからのコメントも出ているので、こちらも要チェックだ。


 日本高校野球連盟が来春の第75回選抜高校野球大会の《21世紀枠=2枠》の46校を発表。
 選考基準の理解に苦しんでいるのは、果たして僕だけだろうか? 《明治神宮枠=1枠》、《希望枠=1枠》もよく分からん。
 某高校野球部監督が
「そもそもが選抜大会。そういうものやねん」
 と、語っていたが…。
 まぁ、この件に関しては、次の機会にジックリと書きたいと思う。

スケジュール帳

2002年12月9日
 来年用のスケジュール帳を購入した。
 スケッチブックみたいな作りのノートスタイル(B5サイズ)。見開きにすると上部が罫線入りのノートスペースで、下部がカレンダーになっているのだ。非常に使い易く、この2年間も全く同じタイプのものを使用。スコアブックに記入する際の4色ボールペンと並んで、僕の愛用の逸品であることに間違いはない。

 当然のことながら、スケジュール帳にはほとんど予定が書き込まれていない。1月のページに2、3の用事が記されているだけだ。
 自身の誕生日に《MY BIRTHDAY》などと書き込む柄ではないし、原稿料が振り込まれる日も出版社によってマチマチだから《給料日》と、記すことも出来ない。ましてや《ボーナス日》なんて、フリーランスにとっては縁遠い単語。
 でも、2月になれば。僕の外見と似つかないと評される“可愛い字”で、ビッシリと埋まるはずだ。
 まだ、正式決定ではないのだが、幸いなことに既にプロ野球のキャンプ取材の依頼が何件か入っているし、『大学野球増刊号』(ベースボールマガジン社)の取材も2月下旬〜3月上旬には済ませなくてはならない。
 また、プロアマ問わないオープン戦も観ておきたいし、東京スポニチ大会→選抜高校野球大会→プロ野球開幕→大学野球リーグ戦開幕といった流れで、本格的に“球春”を迎える。そう考えただけで、今から胸が踊ってしまう。きっと、この日記もタイトル『野球ノ歩キ方』に相応しい内容になって来る!?

 03年は一体、どれだけの仕事が入るのだろうか? そして、野球の試合を何試合、観戦することが出来るのだろうか? 今年のスケジュール帳よりもグチャグチャになって欲しいものだ。

 尚、アルコールを摂取した日もちゃんと書き記しておこうかな。
「あっ、これだけ“飲んだくれて”いるんや…」
 少しは反省(自己嫌悪!?)の材料になるだろう(苦笑)。

ええ声やでぇ〜♪

2002年12月10日
「ここ数日、手抜いてるんちゃう?」
 日記を読んでくれている友人から電話があった。

 そんなトンデモナイ!!!!!
 毎日、真心込めて。そして、時間を割いて。一所懸命に書いている。
 でも、正直な話し、12月にもなるとネタ不足は否めない。
 しかも今日は新聞、休刊日やし(駅かコンビニに買いに行けば、ええやないかい)…。
 最近、全く取材にも行っていない。って言うか、依頼すらない。
 家に閉じこもっている時間が多いもんなぁ。
 電気代の請求がコワイわ(苦笑)。

 関西テレビの『野球狂4』(12/28 25:30〜 OA)で御一緒させて戴く、ますだおかだ(以下、ますおか)の増田英彦からも電話があった。
「島尻君、お正月はどうしてるん?」
「えーっ、西宮にいる予定なんですけどぉ」
「ホンマに。それやったら〜」

 以下、増田の話しをまとめさせて貰うと、
 ますおかはMBSラジオでレギュラー番組(『どーだ!ますだおかだ』毎週土曜日19:30〜 OA)を持っている。それで、1月2日にも6時間にも及ぶ正月特番をやるらしい。で、その特番はスポーツコーナーの時間帯も設けると言う。
 ますおかは野球通。特に、増田は熱狂的なタイガースファンで有名だ。従って、特番では野球界。殊にタイガースの03年展望についてワイワイと語る企画が持ち上がっている。そこで、僕の出番のようだ。スポーツライターという仕事柄、ドラフト会議で獲得した選手の半分以上は生で観ている。
「コメンテーターしてくれへんかな?」
「○★△■☆□∞▲※◇〜!!!」(ビックリして声にならない)
「えっ、無理なんかなぁ…」
「いや、そんなことないっす。もし、そのようなチャンスを頂戴出来るならば、喜んで出演させて貰います」
「オ〜ケ〜♪ もうプロデューサーには推薦してあるから、連絡待っておいてなぁ」

 唐突だ。あまりにも急すぎる。
 でも、こんなありがたい話しはない。スポーツライターは取材をして、文章を書くことが本業。でも、許される範囲ならば、活字以外の媒体でも“顔と名前”も売らなければならない。漠然とではあるが、そのようなことを考えていたところだ。

 公共の電波メディアに、野次馬ではないスポーツライターとして出演する。しかも、正月早々の2日から。ドキドキもするが、それ以上に気合いも入る。
「03年は飛躍の年にするぞっ!」
 アホみたいに吸っているハイライトも控えなくては。やっぱり、ラジオに出るからには
「ええ声やでぇ〜♪」(岡けんたゆうた=漫才師コンビ)
 と、行きたいから(笑)。
差し当たり、プロデューサーからの連絡待ちだ。


『野球ノ歩キ方』日記を書き始めてから、ちょうど1ヶ月が経った。
 おかげさまで、早々に4000HITも突破。
 毎日、100〜150人もの方々が僕の稚拙な文章を読んでくれているのだ。とても励みになるし、もっともっと頑ろうっ!と、気持ちも奮い立つ。
 ってな訳で、皆様、今後も何卒宜しくお願い申し上げます。

 今日の日記も
「また手抜きやなぁ」
 と、友人に言われてしまうんやろうか?
 手抜きなんかしてへんわ。多分…。

不快指数

2002年12月11日
 夕刻、今日こそはスポーツライターらしい視点で(!?)日記を書くんやっ! と、意気込む。
 スポーツ新聞を再読した後、読みかけであった先週号の『週刊ベースボール』(ベースボールマガジン社)を手に取った時。携帯電話が鳴った。
“門田健二→着信”
 門田は僕より2歳年上で、学習塾を経営。雀友(雀敵)、草野球仲間、飲み友達と、非常に接点が多い人物で、お互いに昼間の時間帯は融通が利く。今日も一緒に昼食(とんかつ)を食べたばかり。何かあったんかな?

「さっきはドーモ。ところで、朝日新聞(大阪本社版)の夕刊は読んだ?」
「いや、スポーツ新聞しか購読してないんで(苦笑)」
「あのねぇ、一面の特集記事があるんやけれども…」

 門田と話し終えると、僕は急いで阪急西宮北口駅へ向かう。普段ならば徒歩で4〜5分の距離なのだが、2〜3分しか要さなかった。それは僕の不快指数のゲージが“レベル4.5”まで達していたから。気付かぬうちに小走りになっていたのだ。
 切符の券売機横の売店で、朝日新聞の夕刊を手に取る。
「50円やで」
 新聞、雑誌、ガム、キャンディなどの山の向こうにいるおばちゃんの声に
「夕刊って、安いんやね」
 僕は愛想の良いフリだけをして50円玉を手渡す。そして、すぐに一面の記事を読み始めた。いや、読み始めるまでもなかった。朝日新聞【夕刊】というすぐ横にあった“さらば西宮スタジアム”というデカデカとした文字が目に飛び込んで来たからだ。その時点で、不快指数ゲージは一気に最高値である“レベル5.0”まで上がった。

 2週間前の11月25日、僕はこの日発売の総合スポーツ誌『Sportiva 1月号』(集英社)に寄稿。
“サヨナラの秋”という特集の一環で、営業停止になる西宮スタジアムにスポットを当てた読み物。タイトルはズバリ“さらば西宮スタジアム”であった。
 構想は西宮スタジアムの営業停止が発表された5月中旬から抱いており、6月には、秋頃の『Sportiva』で発表することも決まった。取材もゆっくりとではあるが進めていたことは言うまでもない。
 個人的にも、西宮スタジアムは学生時代にプレーした球場であるから、思い入れも強い。そして、担当のK氏と何度も打ち合わせを重ねて、満を持しての入稿。反省点もたくさんあるのだが、愛着のある僕の分身(作品)である。それだけに不快感は鎮まらなかった。ただ単にタイトル、見出しが“かぶって”しまっただけでなく、内容も若干は“かぶって”いるように思えてしまう。テーマがテーマだけに、これは仕方のないことかも知れないし、僕のような無名スポーツライターが書いた駄文など知らない。『Sportiva』(※今年の3月に創刊)という雑誌は読んだこともない。そう言われてしまえば、それまで。しかし、頭で理解していても、心が理解出来ない。しかも、向こうは天下の朝日新聞であり、スポーツ部の担当記事。歯がゆいとは、こういうことを言うのだろう。

 朝日新聞大阪本社のスポーツ部に電話を掛けた。ケンカを売った訳ではない。事情を説明して、ただ、やり場のない不快感と、大新聞社としてはチェックが甘いのではないかという旨を口にした。
 そして、数分後。スポーツ部のデスクと名乗るヒグチたる人物から連絡が入った。
「この度は…。すぐにでもお会いして、こちらも記事掲載の経緯を説明したいですし、島尻さんのお話もお伺いしたいと思っているのですが」
 迅速な応対だ。不快指数ゲージの針は“レベル2.7”くらいまでに下がった。

 しかし、難しい問題である。僕も知らないうちに、同じようなことを冒している可能性もあるのだから。ただでさえ多岐に渡る媒体が存在しているうえに、この日記のようにネット上のものまでも含めると、まさに“星の数”という表現は大袈裟ではない。その全てを網羅して、チェックするのは至難の業。冷静になり、そのように考え直すと、また不快指数ゲージが僅かながら上昇。今度は“レベル3.2”程度。でも、それは朝日新聞に対してではない。僕自身の“小さな器”を痛感したからである。

 そして、スポーツライターらしい日記は今日も書けなかった…。併せて、自己嫌悪っす(>_<)

背番号

2002年12月12日
 私事ではあるが、これまでに幾つの背番号を背負ったのだろうか?
 リトルリーグに入った小学3年生、初めて手渡された背番号は《39》であった。その後、ボーイズリーグ、中学、高校ではポジションの関係もあって《2》、《3》、《12》、《13》を付ける機会が多かったような気がする。
 大学では運良く、1回生の春からベンチ入りすることが出来た。その際に貰った背番号は《33》。本当は一桁の“軽い背番号”が欲しかったのだが、ユニフォームのサイズ上の問題(ただ単に体がデカかっただけ)で《33》になったというのが真相ではあるのだが(苦笑)。
 とても気に入っていた背番号《33》であったのだが、2回生からは様々な事情!?で《10》に変更。それから、僕の野球人生は転落するばかり。って、背番号のせいにしてはイケマセン。
 サラリーマン時代、草野球を始めた時には《24》を選んだ。そして、御縁があって野球漫画の大御所・水島新司先生の草野球チームBOTTSでは《23》、現在のCBGBイージーズでは《7》を付けている。ちなみに時折、助っ人に行く神戸のチームでは《14》である。

 野球における背番号の由来、歴史などを調べたこともあるのだが、この日記のスペース(3000字以内)を考えると…。省略させて戴きたい。

「10番、何してるんですかぁ〜!」
「ナイスバッティングやで、10番」
 大学時代、試合や練習中、背番号で声を掛けられることが多かった。特に後輩からは、ほとんど背番号で呼ばれていたような記憶がある。
 よくよく考えてみれば、僕も先輩の名前を
「11番、頑張って行こうっ!」
「2番、頼みましたよ」
 などと、背番号で呼んでいたものだ。プレー中とは言えども、先輩の名前を“呼び捨て”には出来ない。また、中継プレーなどで声を繋ぐ時に
「○○さん、もうちょっと右です」
 なんて、悠長に言っていられない。
「31番、もうちょい奥」
 の方が、円滑なのは明らか。
 余談ながら、今日は社会人野球・大阪ガスの練習を観に行っていたのだが、
「1番、4番、7番、バテテるんちゃいますかぁ〜。もっとダッシュ、ダッシュ」
 と、若い選手が先輩に激を飛ばしていた。

 イチロー(マリナーズ)外野手がブルーウェーブ時代、《51》から《7》に背番号変更の打診を受けた時に
「《51》=イチロー。自分の番号にしたい」
 と、断ったケースもあれば、藤川球児(タイガース)は心機一転。自身の名前にちなんで《92》に変更する場合もある。また、井端弘和のように実績を残して、来年は《6》に出世(今年までは《48》)。逆に田中総司(ホークス)の《21》から《54》という例もある。
 たかが背番号、されど背番号。様々な想い、愛着、意図…など。そして、ドラマが存在するのだ。

 現在、プロ球団の新入団選手発表会見のピーク。
「早くファンの皆様に、顔と名前を覚えて貰えるように頑張ります」
 そのようなコメントをする選手も多い。これに加えて、是非、背番号も早く覚えて貰おう。背番号はもう一つの顔なのだから。

「背番号《7》が可哀相やわ、島尻の背中だと」
「えっ、どうしてですか?」
「なんか小さく見えんねん。遠くからやと《1》と見間違えてまうわ」
「・・・・・」

 僕の大きな背中(ムダな横幅???)には一桁の背番号はどうやら似合わないらしい。でも、僕は《7》が好きやねんっ!

おめでとう!

2002年12月13日
 遅ればせながら、今秋の関西学生リーグで2度目のベストナインを獲得した田辺誠吾(関西学院大)内野手を祝福する為に、西宮北口で食事をした。メンバーは田辺と僕に加えて、敏腕!?マネージャーの野本正明(関西学院大)も同席。“餃子の王将”でジックリかつタップリと、栄養補給に徹した。
 田辺はこの日から、社会人野球・大阪ガスの練習に参加。走り込み中心の豊富な練習を終えたばかりで
「もう膝から下がカクカクですわ」
 と、言いながら、餃子、唐揚げ、キムチチャーハン、焼豚、八宝菜をペロリとたいらげる。若いスポーツマンの旺盛な食欲は、非常に羨ましい限りである。

“餃子の王将”を出て、もうちょっとだけ飲もうか。ということで、いつものスポーツバーCBGBへ足を運ぶ。
 CBGBイージーズの正捕手・渡辺昭紀がカウンターで焼酎のロックを渋く飲んでいたところまでは良かったのだが、しばらくすると、野上大輔、山田幸二郎、舛屋亮、榎本公介の大阪ガス投手陣4人も店へやって来た。聞けば、エース・山田幸二郎が11月26日に晴れて入籍。それを祝して、焼肉をガッチリ食べ終わった後だと言う。焼肉と餃子…。焼肉の圧勝やね(苦笑)。

「学生は元気やのう!」
「誰の金で飲んどんじゃいっ!」
 名門・尽誠学園高出身の舛屋が陽気に、田辺と野本に絡む。僕も久々に酔いが回り、同い年の野上と熱〜い酔っ払いトーク(2人共、同じ発言を何度も繰り返す…話しは永久に終わらない)。楽しい時間はアッという間に流れて行った。

 CBGBイージーズの大部雅裕、タイガースの谷中真二投手、赤星憲広外野手、藤田太陽投手らの治療をしている宮川接骨院一ヶ谷分院長の岡克己なども来店。でも、久々の深酒で何を喋ったのかほとんど覚えていない…。

 帰宅した時間もハッキリと覚えていない。とりあえず、正午前まで爆眠をむさぼる。起きたら、ベッド脇にカゴメトマトジュース(500ml)のペットボトルが2本。空になって転がっていた。一体、いつ飲んだんやろう??? まぁ、そのおかげで、相変わらず二日酔いにもなっていないようだ。
 これから、忘年会シーズン真っ盛り。充分、体調には気を配らねば。そう思いつつシャワーを浴びた次第である。


 幸二郎&智ちゃん、ホンマにおめでとう! ありふれてはいるが、末長くお幸せに。そして、プレーでも一層の活躍を。

 誠吾、ベストナイン獲得おめでとう! ラストイヤーを迎える来年は大事な年。続けてベストナインが獲れるように、高い意識で臨もう。また、副将としてもグイグイと、チームを牽引しよう。
 困った…。日記が確実に1日ズレている(苦笑)。これをどこで修正すべきなのか??? 一番の難問である。

 12月28日(土)25:30〜OAの『野球狂のネタ4 〜遠征』(関西テレビ)の打ち合わせの為に、扇町の関西テレビに出掛ける。
 打ち合わせ前、8階の編成局フロアにて、長瀬誠示と約1年振りに出会う。僕が野球評論家・金村義明のマネージャーをしていた時、長瀬は報道スポーツ局で人気番組『スポーツあみーご』(関西テレビ)を担当。一緒に仕事をしたことがあるのだ。長瀬は現在、編成局に異動。僕も独立してスポーツライターになった。お互いに肩書きが代わっても、このように再会出来るのは嬉しいことである。

 肝心な打ち合わせ―またもや大爆笑の嵐。とにかく笑いが絶えない打ち合わせなのだ。
 まず、制作会社プルポの松本浩はロケの下見で千葉マリンスタジアムに行って来たのだが、僕らに土産を購入して来てくれた。土産の品は、あまりにも季節外れのウチワ。初芝清(マリーンズ)のイラスト入りで“RBI TITLE HOLDER”(=打点王)と、書かれている。いつの話し(95年)やねんっ!さらに値札を見てビックリ! 200円って…安すぎるやん。松本の温かい心遣いにケチを付ける気はサラサラない(むしろ感謝の気持ちで一杯)。ただ、製造元、販売店は利益があるのだろうか。余計なお節介ながら、そのことが心配になった。
「シコースキー(今季限りでマリーンズ退団)のTシャツもメッチャ売ってたわ」
 一体、誰が買うんやろう?????

 放送作家の森脇尚志は地味な題材、選手を好む。
“ちまちま大記録! 小坂誠(マリーンズ)遊撃手最高守備率新記録”とか“手堅い芝草宇宙(ファイターズ)3年契約、しばらくは大丈夫”などのフレーズがポンポンと、飛び出て来る。
 同じく放送作家の桝野幸宏は饒舌でこそないが、ピンポイントで“笑いのツボ”をくすぐってくれるので、話しは寄り道ばかり。いっそのこと、この打ち合わせもカメラを回せば良いのに。と、思いもするが、マニアックすぎるか。なんせ
“番号変わります。えぇ福岡に行くモンで。松田匡史(トレードでタイガース→ホークス)”
 の話題で、
「背番号? 自宅の電話番号?」
「どっちもです」
 大爆笑になってしまうんやから。

 そのような打ち合わせではあるが、なんとかロケに向けての方向性が明確になり、各人に“宿題”が出される。次の打ち合わせは18日(水)。僕も早いうちに“宿題”を片付けないとアカンわ。
 結果的に3時間余りを費やした打ち合わせであったが、疲労感は全くなし。みんな、カバンに“初芝ウチワ”をしまい込み、関西テレビを後にした。

 梅田まで歩き、東通商店街の居酒屋で夕食。前日、飲みすぎたのに、今夜も飲む。まぁ、かなりセーブ(生ビール中ジョッキ3杯、焼酎水割り2杯)したつもりですが!???
 いつもゴチソウになってばかりでスミマセン。ありがとうございます。>松本さん

 季節柄、忘年会帰りの人間が多い。阪急西宮北口駅で降りた際に、ホロ酔いの一団(男女混成チーム)に少し絡まれる。
「オイッ、そこのニイチャン。自分、誰かに似とるなぁ〜」
「あっ、アイツや、アイツ。ジャイアンツの高橋由伸や」
「ホンマやぁ〜、太ったヨシノブやわ。ちゃんと襟足はねてるしぃ〜」
 え〜っ、襟足がはねるのはクセッ毛やから仕方ないねん。あと、太ったという形容詞はわざわざ付けんでヨロシイ。あぁ、なんだかムカツク…。
「はいはい、よく言われますわ。ドーモありがとう、おおきに」
 それだけ言い残して、家路を急いだ。


『炎のストッパー 津田恒美』(関西テレビ)の再放送を観た。観るのは2回目で、ストーリー展開も分かっているのに、なぜだか涙が止まらない。30歳を目前にした男が平日の夕方に、テレビ前で大号泣する。絵にならんなぁ…。
 本棚から『もう一度、投げたかった〜炎のストッパー 津田恒美 最後の闘い』(幻冬舎文庫/山登義明、大古滋久)を手に取る。そして、再度、大号泣。よく泣いた一日であった。


 懸念であった、日記のズレも無理矢理に修正。でも、これから“すっぽん鍋パーティー”があるんやなぁ。また、ズレそうです(大苦笑)。

ファーストグラブ

2002年12月15日
 今日の話しは“ファーストグラブ”。初めて手にするグラブのことである。一塁手用の“ファーストミット”にまつわる話しではない。

 幼い頃の記憶なので、曖昧な部分も多いのだが。僕はかつて左手でボールを投げていたような気がする。
 現在でも、多少はギコチないフォームではあるけれども、左でもそこそこ(40〜50mくらい)はボールを放ることが可能。また、箸も左で使うことが出来る。
 元来、僕は“左利き”だったのでは?
 実際にその名残か、僕は腕時計を右腕にはめている。左腕に時計をはめて時刻を見ようとすると、左脇が不細工に開いてしまうのだ。右腕ならば、自然な動作。まぁ、ただ単純に“馴れ”の問題なのかも知れないが。

 親に言われて、直した訳ではない。小学校に入学して間もない時。僕は周囲の仲間と違うことに気付いたのである。ドッチボールで、僕だけボールを投げる手が逆であった。子供心にみんなと同じでないことは不安で仕方がなく、自身の意思で左投げを封印したのだ。

 ある日、父親と住んでいたマンション内の公園でボール遊びをしていた。
「あれっ、お前、いつから右で投げるようになったんだ?」
 父親は僕の変化にすぐ気付くと、僕の手を引いて、すぐ近所にあったスポーツ店へ向かった。そして、買って貰ったのが深い緑色のグラブ。勿論、右利き用のもので、オーソドックスな子供用であった。残念ながら、どこのメーカー(ミズノだったかな?)のものであったかまでは覚えていない。
 生まれて初めて手にしたグラブは、僕の宝物になった。毎日、学校や同じマンションに住む友達と野球をして遊び、夜は一人(一人っ子だったので)で壁当てに没頭した。寝る時も、いつもグラブを枕元に置いていたものだ。
 小学3年生になって、リトルリーグに入った。硬式用のグラブに買い替えて貰ったので、宝物であった“ファーストグラブ”は全く手にしなくなった。いや、それどころか、いつの間にかどこかへ消えてしまった。
 今になって、つくづく後悔している。あの“ファーストグラブ”を、ちゃんと保管しておかなかったのか? 大事にしておかなかったのだろう? 野球人生の“はじめの一歩”を踏み出したグラブであったのに…。


 康平君と健吾君。僕の彼女の甥っ子(お姉さんの子供)である。
 12月末に弟の健吾君が3歳の誕生日を迎える。これまで、兄の康平君にはNIKEのスニーカーを買ってあげたこともある。さて、健吾君へのプレゼントは何が良いものか?

 この夏、康平君、健吾君の2人と遊ぶ機会があった。ゴムボールでキャッチボールをしたり、僕の投げたボールをバトミントンのラケットで打って貰ったり。記録的な猛暑の中、僕の着ていたTシャツも汗でグッチャリになってしまった。
 5歳になる康平君は小さなグラブを持っていた。ところが、2歳の健吾君はグラブを持っていなかった。
「ケンちゃんは多分、左利きやと思うねん」
 彼女はそう言い、さらに小さな子供向けの左利き用グラブが売っていない(見付からない)ことを付け加えた。確かに健吾君は左でボールを投げていたし、康平君のグラブを借りても、右にはめる。
「ふ〜ん、それやったら作ったらええやんか」
「グラブって、作れるん?」
「手形とか取って、革とかも好きな色を選べるんやで」
「へぇ〜、そうなんや。知らんかった」
 そのような僕と彼女とのやり取りがあって、健吾君の誕生日プレゼントは“ファーストグラブ”に決定。

 携帯電話のメモリーから、高校時代の同級生である広池浩司(カープ)の名前を呼び出す。そして、広池にグラブを作りたい旨を説明。
「どこのメーカーでも良いから、カープに出入りしている道具担当者に頼んでくれへんかな」
「でも、あまり小さすぎてもダメだろう。小学生の中学年くらいまでは使えるヤツを頼んだ方が良いと思うんだけどなぁ」
 という広池の助言も参考にして、グラブをオーダーした。“KENGO”と、刺繍を入れるのも忘れずに。
 
 携帯電話のディスプレイに見覚えのない電話番号が表示された。
「本当、ありがとうね。ちょっと早いけど、健吾の誕生日プレゼントが届いたんよ。健吾がお礼を言いたいそうじゃけぇ、ちょっと代わるから待っとってね」
 電話の声の主は、彼女のお姉さんであった。そして、
「オイちゃん、赤いグローブ、カッコいいよ。僕、頑張るね。オイちゃんもお仕事、頑張ってね。また、一緒に野球やろうね。ありがとう。どうもありがとうございました。バイバイ」
 まだ3歳になっていない健吾君がシッカリとした口調でお礼を言ってくれた。恐らく、ママ(彼女のお姉さん)が電話の向こう側で“こう言うんよ”と、教えているのだろう。それでも、健吾君が喜んでくれているのは存分に伝わって来て、グラブをプレゼントして良かった。と、心底から思った。

 健吾君にとっての“ファーストグラブ”。果たして、どれだけの意味を持つのだろうか?
 これがきっかけになって、将来はプロ野球選手に…なんていうのは出来すぎた話しではあるが、少なくとも野球をはじめ、スポーツに興味を持つようになれば。それだけで嬉しいものだ―。

納会

2002年12月16日
 昨日は草野球、今季最後の公式戦(西宮市C級市長杯)で、甲子園浜球場にて強敵・神風と対戦。
 白熱の攻防の末、3−2で我がCBGBイージーズは勝利を収めた。
 初回に先制を許したものの、庄治大介が右中間を深々と破る同点ランニング本塁打を放てば、主砲・?野好司がタイムリーも含む2安打。そして、37歳のエース・奥川明が気迫の完投勝利を挙げた。えっ、僕は? 二塁手として数回の守備機会を無難にこなして、勝利に貢献した。ということにしておこう。一応、リリーフの準備もしていたんやけれどもね。

 上機嫌のまま、スポーツバーCBGBで納会が始まった。田辺美史と森脇知の完璧な仕込みの下、納会に相応しい豪勢なスキヤキに舌鼓を打つ。なんだか、ここ数日は“鍋モノ”ばかり食べているような気もするなぁ。
 納会は多いに盛り上がり、いよいよ今季成績及びタイトル獲得者の発表。僕はデータを手渡され、エクセル入力をしていたので結果は知っていたのだが、一同が顔を合わせている場だとドキドキしてしまう。
「首位打者は?野好司〜で.391〜♪」
「イエーィ、タッカン〜!!」
「最多安打は岩戸浩明、 29安打〜♪」
「よっ! ええぞぉ、大社長!!」
 といったような感じで、一層に納会がヒートアップしたのは言うまでもない。
 尚、CBGBイージーズに関係のない人間には全く“どうでもええ”話しではあるが、タイトル獲得者は以下の通り。

《首位打者賞》?野好司 .391(46打数18安打)
《最多安打賞》岩戸浩明 29安打
《本塁打王》岩戸浩明、北田直輝 2本
《打点王》奥川明、島尻譲 22打点
《得点王》岩戸浩明 26得点
《盗塁王》岩戸浩明 19盗塁
《最多勝》奥川明、島尻譲 9勝
《最優秀防御率》奥川明 0.62
《最高勝率》奥川明 0.818(9勝2敗)
《最多セーブ》島尻譲 3セーブ
《最優秀新人賞》瀬戸山良二
《監督賞》大部雅裕

 来季は浦口雅広が正式加入。個人的には投手としての負担(今季は登板回数84回2/3)が減るはずなので、打撃部門で頑張りたいと思う。首位打者でも狙ってみようかな。って、今年もそのつもりやったのに最終的には.278と、夏場以降のスランプで首位打者戦線から脱落…。でも、シッカリと目標を設定して、高いモチベーションでケガなく、草野球を満喫したい。そう強く思わせてくれた、楽しい納会であった。
 まず、今日の日記は食事をしながら、読まないで欲しい。

 元々、僕は胃腸があまり丈夫な方ではない。加えて、人並み以上にアルコールも摂取する。従って、僕は“軟便系”な男なのである。
 さらに1日平均2〜3回は用を足す“頻便”でもあり、もよおすのは不意な時が多い。だから、ティッシュペーパーは必須の携行品だ。


 10月19日、甲子園球場。関西学生野球リーグ伝統の一戦“関関戦”(関西大−関西学院大)をネット裏から観戦していた。
 この日は時折、小雨がパラついて底冷えするうえに、僕は前夜にしこたまヤケ酒をあおっていた。(友人でもある浦口雅広の引退が原因、11月27日の日記【自分で決める引退】を参照)
 充分に悪条件は揃っている。試合を観ながら、バッドコンディション極まりない腹の具合ばかりを気にしていた。そして、案の定にやって来た。ビッグウェーブが…。
 僕はイニングの合間にネット裏観客席の階段を疾走。関係者出入り口を一気に走り抜けて、一塁側ダグアウト裏にあるトイレへ駆け込む。
 ベルトは瞬時に外せるが、こういう時に限ってボタンの多いジーンズを履いている。それでも、なんとか耐え通して、洋式の便器に座る。やっと訪れる至福の一瞬。(腹はくだしているのだが、本当にくだらない話しだ…)

「ふーっ」
 人間、多いなる安堵感に包まれると視野が広くなるものだ。閉ざされた狭い個室の床、足元に何か落ちていることに気付く。それはケース状のもので“冷所保存 ボルタレンサポ 50mg”と表記されている。
「なんや、座薬の空ケースかいな」
 僕は大学時代に腰椎椎間板ヘルニアを患っていた(後に手術)時があり、痛みを少しでも緩和させる為に同じ座薬を使っていたことがあるので、すぐに分かった。
 ということは、誰かがこの個室で座薬を使用していたに違いない。恐らく、一塁側ダグアウト裏であるから、関西学院大の選手であろう。
 肩、肘、膝、腰…どこに痛みを覚えているかまでは分からない。しかし、現実に座薬を使用している選手が痛みをごまかして試合に出場しているのだ。
 座薬は鎮痛作用に関しては即効性のある薬で、使用している選手も多い。プロ野球選手が
「この座薬、メッチャ効き目あるぞ」
「ホンマ。俺にも少し分けてくれへんかな」
 そのような会話をしているのも聞いたことがある。

 プロアマの垣根を問わず、アスリートは完璧なコンディションでないことが多い。肉体のどこかしらに爆弾を抱え、厳しい戦いの舞台に立っているのだ。そのことを改めて、強く感じさせられた。閉ざされた個室の中で―。

 翌日、僕の腹のコンディションはごく普通の状態。それでも、また試合前に甲子園球場で便意をもよおした。
 前日と同じ個室に入り、用を足す。そして、床に視線を落とすと、座薬の空ケースが2つに増えている。誰だか判明はしていないが、彼は今日も痛みを堪えながら試合に出場するのだろう。

 でも、空ケースは床に放らないで、キチンとゴミ箱に捨てよう。代わりに捨てても良いのだが、拾うのには少し抵抗感がある(苦笑)。
 スポーツ新聞の切り抜きをサボってしまっている…。
 取材に出掛けることもなく、日中の大半は在宅しているんやけれどもなぁ。
〈時間にゆとりがある〉⇒〈いつでも出来るわ〉⇒〈別に今やらんでもええやろう〉
 このあまりにも短絡的な思考回路が確実に自身の首を締めていることは明白だ。

 切り抜きはコマメにするに限る。
「あっ、こんなコメントをしているんや」
「へ〜っ、そんな発表があったんかいな」
 そう思った時に即、行動へ移すべきなのだ。溜め込んでしまうと、
「どこに書いてあったんやっけなぁ〜?」
 と、目当ての記事を探すのに一苦労。また、ついつい関係のない記事にも、目と心を奪われてしまうので大切な時間も大幅にロスすることになる。効率が悪いこと、このうえない。
 どうにか解決したい問題なのであるが、山積みになっているスポーツ新聞を見ていると、一向に気が進まない。いつかは切り抜かなアカンのやけれどもぉ(苦笑)。


 関西圏のスポーツ新聞の一面はFA権を行使した中村紀洋が独占。まさに“ノリ一色”で、ノリ、ノリ、競馬、ノリ、辰吉、ノリ、ノリってな感じ。
 17日にもタイガースと、3回目となる交渉が行なわれた。そして、
「今は横一線。年内には結論を出します」
 と、予想された進展にとどまる。せっかちな野球ファンは
「バファローズ、タイガース、メッツの中から、早よう決めえやぁ〜」
(※ノリが「メッツ、バファローズ、タイガース」の順で言っていたのは気に掛かる)
 急いているようであるが、僕は意外と無関心。まぁ、いずれは行き先が決まる。そこでノリは持ち味を発揮して、役割を果たせば良いのだから。従って、
「ノリはどこへ行くんやろうねぇ?」
 というクエスチョンが一番、応え辛い。実際、よく尋ねられるのだけれども。
 僕の中では、ノリがジャイアンツとの交渉を終えた時点で“好きなチームへ行きましょう〜♪、ジックリ、ユックリ悩みましょう〜♪”モードなのだ。もし、ジャイアンツへ移籍するような展開ならば
「ブルータス、お前もかっ!」(ちょっと違いますね…)
 的な論調で、この日記でもギャアギャアと、騒いでいたのだと思う。
 確かに、戦力構想を固めなければならない現場サイドの人間は
「早よ決めてえや」
 そのような心境なのだろうが、ノリの野球人生だけにとどまらない、大英断の時。それを周囲(特にマスコミ)が
「優柔不断や」
「もて遊んでいるんと違うか」
 などと、あおる権利はないと思う。
 ただ、ノリも
「悩みすぎて夜も眠れへん」
「胃に穴が空きそうですわ」
 と、公言する必要もない。FA権を行使する前から分かっていることなんやからさ。そのような人間らしい部分を見せてしまうから、周囲もヤンヤ言いたがんねん。ポーズでも良いから、
「俺の好きにさせろや」
 で、押し通しても構わないと思うねんけどな、僕は。


 日本野球連盟が03年度の社会人野球の理事会を開いた。
 まず大会日程。
 日本選手権大会は、五輪のアジア予選大会の絡みだろう。プロ野球のドラフト会議後の11月22日から9日間の開催となる。これに伴い、プロ野球との交渉開始が日本選手権大会地区予選の終了日からという特例措置が講じられる。
 第74回目となる都市対抗野球大会は今年とほぼ同時期の8月末から(8月23日〜9月2日の11日間、東京ドーム)。従来は、それよりも1ヶ月早い7月末からであったのだが、集客力や高校野球選手権大会のことなども踏まえると、ベストな時期のように感じる。
 取材する人間としての立場だけで言うと、冷房の効いた東京ドームから炎天下の甲子園球場に行くのは心身共にシンドイ。でも、暑い甲子園球場で免疫を作ってから、涼しい東京ドームへ。というのは、なんとなく楽(今年は)であった。それに、高校野球で“野球熱”がヒートアップした直後に、精度の高い社会人の“大人の野球”を観るのもオツなものだ。ただ、朝から晩まで、屋根付き球場の中にいるのは息苦しいんやけれどもね。
 8月中頃、各地区の恒例であった社会人野球チーム−大学野球チームの練習試合が組みにくくなるなどの問題点もあるのだが、是非、この日程は固定して貰いたいものだ。

 また、出場チーム枠も今年の28チームから32チームに戻す。正味な話し、社会人野球チームは不景気の影響で、減少の一途をたどっているのは周知の事実。でも、それだから出場枠を減らす。という策は、この日記の冒頭で述べた“僕の短絡的思考”と、何ら変わりはない。むしろ、このような時だからこそ、大々的に社会人野球の面白さをアピールするチャンス。“貧すれば鈍する”にならないように。

 尚、社会人チームがプロ関係者、退団者から臨時指導を受ける際の届出を廃止するようにという、プロとアマの垣根を低くする画期的な提案も出されたのは非常に喜ばしいことだ。
 阪急梅田駅から賑やかな東通り商店街を抜ける。しばらくすると、扇町公園が見え、関西テレビに到着。別にJR大阪駅から天満までの1駅120円の電車賃をケチっている訳ではない。さほど時間的な差もないからだ。それに、ザワザワとした都会の喧騒の中でも、ノンビリと歩くのは気分が良い。文章を書くヒントもゴロゴロと、転がっている!?
 16:00より『野球狂のネタ4 〜遠征』(関西テレビ 12月28日 25:30〜OA)の最終打ち合わせ。進行台本のチェック、コントやトーク内容の再検討で、2時間がアッという間に経つ。ロケが22日に行なわれるので、進行台本、コント、トークの改訂版の締切は19日正午。厳しいリミットではあるが、放送作家・森脇尚志、桝野幸宏に、僕も含めた3人は
「了解ですっ!」
 と、即答。“野球狂”ゆえに、この仕事は辛くない。もう完全に趣味の世界。同好会ノリの感がある。

 会議が終わり、携帯電話を確認すると、一件の伝言メモが。
「お世話様です。古谷です。今日は授業に出てから伺いますので、少し遅れてしまいます。それでは、また」
 近畿大野球部のマネージャー・古谷純一からのメッセージを聞き終わると、今度はマナーモードの携帯電話が手の中で暴れ出す。
「お疲れ様です。野本ですけれども。島尻さん、どこにいますか? 関西テレビですか。自分も梅田に着きました」
 関西学院大野球部マネージャー・野本正明からも連絡が入る。僕は急いで、関西テレビへ来た道を戻るようにして梅田へ足を進めた。

 東通り商店街のちょうど真ん中を突っ切るような形の新御堂筋線沿いの居酒屋に入る。
「こんにちは、僕らもちょうど来たところなんですよ」
 と、京都産業大野球部の元マネージャー・柿内康平が頭を下げて来る。そう、以前から提案されていた“関西野球部マネージャー会”の席が遂に設けられたのだ。

 出席者は関西学生リーグ、関西六大学リーグのマネージャー達。
(関西学生)
 近畿大/古谷純一
 立命館大/瀬川雄介
 同志社大/土井慎太郎、中路將位
 関西学院大/永吉和也、野本正明
 京都大/徳永太郎
(関西六大学)
 京都産業大/柿内康平、酒井康輔
 神戸学院大/田部博也
 大阪商業大/川崎奈緒美、前崎乃莉子
 
 大人数で寄せ鍋を囲んで、“関西野球部マネージャー会”は楽しい宴となった。
 ただ、お酒を飲んで騒ぐだけの親睦会、忘年会ではない。違うリーグのマネージャー同士、辛うじて顔と名前こそは一致するが、あまり交流を持つ機会が少ない。このような場があることで、3月や8月に行なう練習試合などが組み易くなったり、お互いの情報交換も出来る。
「関西の学生野球を盛り上げて行こうっ!」
 という気運も当然、高まって行くだろう。
 
「自分はもう卒業してしまうんですけれども、何か役に立つことは出来へんかなって思うんですよ」
 柿内の熱い気持ちに土井も賛同。そして、年末の慌しい時期ではあったが、実現に至ったのである。
 宴の合間に名刺交換をするマネージャー達。その時、僕の対面に座っていた柿内の口元がほころぶのを僕は見逃さなかった。
「今回の企画は大当たりやで」
 そう口にこそ出さなかったが、僕は柿内のジョッキにビールをナミナミと注いでやった。

 ところで、なぜ、僕がこの若きマネージャー達に交じっていたのか?
「島尻さんは名誉理事長ってことで」
 柿内の甘い一言にそそのかされて、ホイホイと顔を出してしまったのである。
 まぁ、僕も学生野球を取材する機会が多いので、マネージャーと交流があることで取材も申し込み易いなどのメリットは大きい。
「来年のエースを是非、取り挙げて下さいよ」
「ウチにも良いバッターいますから」
「期待の新人が入って来るので宜しくお願いします」
 積極的にアピールして来るマネージャー達の熱心さに、僕もビールを流し込むピッチがついつい上がる。相変わらずの“酔いどれライター”は来年30歳…。

 記念すべき第一歩を踏み出した“関西野球部マネージャー会”。今後も、柿内らの意思を後輩達が受け継いでくれるはずであろう。また、近畿学生リーグ、京滋学生リーグ、阪神大学リーグにも、この輪が広がって行けばベストなように思える。
 とても美味しいお酒が飲めた夜だった。

 柿内君、幹事、御苦労様。グッドジョブやったね。今度はゆっくり飲みましょう。
 次回の“関西マネージャー会”、名誉理事長はもう少し奮発出来るように頑張りますわ。

タテジマ

2002年12月20日
 私事ではあるが、中学、高校時代のユニフォームはタテジマであった。その影響もあるのか、いまだにタテジマのユニフォームは“カッコイイ”と思ってしまう。

 FA宣言をしていた松井秀喜のヤンキースへの入団が決まった。正式契約はこれからということではあるが、松井自身、ひとまずはホッと胸を撫で下ろしているのではないか。
 僕ごときのフリーランスのライターと比較しても仕方がないのだが、
「もしかしたら書いて貰うかも知れません」
「お願いするつもりなので、宜しくお願いします」
 などの曖昧なニュアンスよりも
「この仕事、島尻さんにお任せします」
 と、正式な依頼の方が精神衛生上、気楽なことこのうえない。
 やっぱり、正式という言葉が持つ響き、意味は大きい。

 あまりにも有名な話しであるが、松井は熱烈な掛布雅之(野球評論家)及びタイガースファンであったと、聞く。プロ入り前、きっとタイガースのタテジマのユニフォームに袖を通すことも夢見ていたに違いない。
 そして、来年。憧れたであろうタイガースのタテジマでこそないが、“伝統のピンストライプ”と呼ばれるヤンキースのユニフォームで身を包む。

 これまでに合成写真で、松井がヤンキースのユニフォームを着用している姿は見たことあるが、実際に“ピンストライプ”、タテジマは似合うのだろうか?
 186?の上背に、大きな背中。そして、グラウンドをガッチリと踏みしめる強靭な足腰。立派な体躯をした松井はタテジマが似合うはずだ。素っ気ないように映るジャイアンツのユニフォームよりも絶対に。
 今から、とても楽しみにしている。


※ジャイアンツファンの方へ
 別にジャイアンツのユニフォームをけなしている訳ではありませんので御了承の程を。
 あくまでも個人的な“美意識”の問題。
 ジャイアンツのユニフォームにも伝統があることは重々に承知している次第。

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